2015-Pixabay

image from pixabay.com lic:P.D.



2014年を振り返りながら、2015年を臨みたいと思います。昨年は「決意」と書きましたが、どうも力みすぎていけませんので、単に「臨む」としておきます。まずは外部環境といいますか、世情編です。私が考える2014年の世情の要点は2つです。


  1. 新聞の信用失墜とコモンセンスの喪失
  2. 財政規律の喪失


なお、個人編は別途書き下ろす予定です。


①新聞の信用失墜とコモンセンスの喪失


2014年は、メディア、特に新聞の信用が失墜した年だったのではないでしょうか?


社会に出て職を得て今日まで、たとえ若年層の新聞購読率が下がろうとも、おじさんたちは若者に「新聞ぐらい読め」と説教を垂れることができました。そしておそらく、その説教が通用しない割合のほうが多い時代に入ったのではないかと思います。


最大の原因は、言わずもがな、朝日新聞の犯した慰安婦問題です。


他にもあります。世間ではあまりメディアの問題として取り沙汰されることはありませんでしたが、STAP細胞問題です。理系の人間が見れば、最初からウソであることは明らかで、そもそも報道するに値することではありません。なぜ未だにこれほど騒がせているのか、不毛と言わざるを得ません。


コモンセンスの喪失

新聞の信用失墜がもたしたものは、結果的にコモンセンスの喪失、さらには良識を学びにくい社会になったのではないかと思います。


新聞(あるいはテレビの報道)が報じていることを、ビジネスパーソンはみな共有していましたし、その共有認識、コモンセンスを土台に良識が築かれていたように思います。共有認識が失われれば、あらゆる議論のための土台も失われるため、必要以上に、議論に時間を要するようになりますし、場合によっては時間切れになりかねません。


財政、外交、エネルギー、環境。これらの諸問題をメディアがリードすることができていません。財政については、私はもはやタイムリミットは過ぎたと思っています。


②財政規律の喪失

週刊東洋経済2015大予測


私が安倍政権の施策でもっとも反対なのは、日銀による量的緩和です。10月31日、アメリカが量的緩和を取りやめたその日、日銀はさらなる量的緩和を決定しました。



結果はご存知のとおり、円の暴落と株価の高騰です。安倍首相誕生後、円が暴落したから株価が高騰しただけの話であり、ドル建てで見れば、実は大して上がっていません。



黒田東彦日銀総裁の狙い

黒田東彦日銀総裁は、確信犯的に円を暴落させました。もちろん円の暴落により、インフレは達成できるでしょう。しかし、この後、さらなる円暴落を御することができるのでしょうか?


黒田氏は、自身の著書で為替を制御することがいかに難しいかを吐露しています。1971年のニクソンショック時の量的緩和は、単に円ドル為替を固定相場から変動相場制へ移行させたのみならず、1973年のオイルショック時に日本のみ狂乱物価を招きました。1985年のプラザ合意では、円高の歯止めを御することができませんでした。


黒田氏は分かっています。さらなる円安が起きることを。狙いは国際的な円の減価、日本国債の減価に他なりません。円の減価は、結果的にそれが高齢者から若者への所得移転を促すという点においては、賛成ですが・・・



投資家ジム・ロジャースの予測

もちろん、国際情勢を鑑みると、日本の通貨だけが一方的に暴落することは考えにくいです。円安になればなるほど、日本の製造業の国際競争力は回復し、中国・韓国の製造業が壊滅的打撃を与えかねません。しかしそれでも、1ドル130円から150円、あるいは200円程度まで暴落することもありうると考えています。


とそんなことを考えていましたら、年末の週刊東洋経済で、投資家のジム・ロジャースが寄稿していました。

行きすぎた紙幣増刷は世界に何をのたらすか

世界規模の破綻が2020年までに来る


まだ、東洋経済オンラインでは記事が見られません。ブロガーが何人か報じていますので、リンクを貼っておきます。



社会のあり方を学び、実践したい


財政規律の喪失が招く事態が何であるのかを推測することは容易ではありません。過度に心配してもしかたなく、この社会全体の潮流の中で自分ができること、すべきことはなんだろうか?と考えると、非常にべたではありますが、一つはやはりコミュニティの再生だと思うのです。


本来、社会というのは互恵、相互扶助であるはずです。しかし、中央集権国家がもたらしたものは、民主主義が未成熟な日本においては、政治・財政への無関心でした。支払っている税金以上の恩恵を受けていいはずがないのに、その歯止めが利きません。これは全国民の責任です。


もし、1億人を抱える国家ではなく、政治・財政単位が100人程度の社会だったら、このような事態は起こりえません。それは、その社会の参加者がその社会の諸問題を自分ごととして考えるからです。長野県下條村では、建設資材を村が準備するものの、舗装工事は住民がボランティアで行ったということが話題になりました。



「自分たち」と考えられる社会の単位

自分たちのことは自分たちでやる。それが本来の社会のあり方です。問題は、「自分たち」と考えられる単位です。「自分たち」と考えられる単位に、社会を分割する必要があるのかもしれません。また、一番目の課題である良識の学びにくさに対して、分割された小さな社会は良識を論ずる場にもなりえましょう。元来、メディアのない時代にも良識はありました。良識を論ずる小さな社会は、ちょうど昨日放送が始まった『花燃ゆ』でも垣間見えます。


これまでもフューチャーセンターに関する活動など、これからの社会のあり方に関わってきました。また、私が参加しているEGMフォーラムでも、社会(コミュニティ)のあり方を論じています。今年も社会のあり方に対して、学び、そして実践していきたいと考えています。同様のことを考えられている方、ぜひお声がけください。


それでは、ごきげんよう。



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