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本書は成毛眞氏の選書ですが、氏の選書眼に脱帽しました。今までのところ、2011年ナンバーワンの書です。


常々、わたしたちは現在からの認識でもって歴史を見てしまい、誤った歴史解釈をしがちです。本書は日本の美術史に光を当てただけでなく、戦前の日米関係の悪化の過程を、アメリカに残された日本企業の立場から、生々しくもリアルに描くことに成功しました。以下、(1)美術史、(2)日米関係史という観点で書評を試みます。


目次

  • 序章 琳派屏風の謎
  • 第一部 古美術商、大阪から世界へ
    • 第一章 「世界の山中」はなぜ消えたか
    • 第二章 アメリカの美術ブームと日本美術品
    • 第三章 ニューヨーク進出
    • 第四章 ニューヨークからボストンへ
  • 第二部 「世界の山中」の繁栄
    • 第五章 ロンドン支店開設へ
    • 第六章 フリーアと美術商たち
    • 第七章 日本美術から中国美術へ
    • 第八章 ロックフェラー家と五番街進出
    • 第九章 華やかな二〇年代、そいて世界恐慌へ
    • 第十章 戦争直前の文化外交と定次郎の死
  • 第三部
    • 第十一章 関税法違反捜査とロンドン支店の閉鎖
    • 第十二章 日米開戦直前の決定
    • 第十三章 開戦、財務省ライセンス下の営業
    • 第十四章 敵国資産管理人局による清算作業
    • 第十五章 閉店と最後の競売
    • 第十六章 第二次世界大戦後の山中商会
  • 終章 如来座像頭部
  • 資料と参考文献


美術史の側面

本書を読むまで不思議に思っていたことがあります。尾形光琳の屏風や安藤広重の浮世絵などの江戸時代までの美術品が、明治時代以降、なぜ、どうやって欧米に大量流出したのだろう?と。同様のことは中国美術についても言えます。本書を通じて、その原因と経緯がよくわかりました。それは、以下の3つに集約されます。


認識の問題

現在の日本人は、光琳や広重の作品を美術品だと思っています。しかしそれは、経済的に豊かになり、成熟した現代社会から見ているからこそ、そうだと言えます。

「美術品は貧乏な国から逃げていくものですよ。価値があるとわかったときに、取り戻せばいいんです」

これは本書に登場する現代の中国人ジャーナリストのコメントですが、正鵠を射ています。価値のある美術品が日本や中国から流出したのではない。そもそも美術品としての価値を見出したのは欧米人であり、欧米に流出したからこそ、保護されて現在に至ります。特に中国の美術工芸品については、義和団の変、辛亥革命から第二次大戦、国共内戦まで、半世紀にわたって内戦状態にあった中国に留め置かれていたら、さらに多くの美術品が破壊しつくされていたかもしれません。


その中国からは、半ば略奪のような形で美術工芸品が輸出されました。いや、中国人も略奪に加担していました。欧米人からお金を受け取り、勝手に石窟の像などを売り払いました。『シュリーマン旅行記』にも描かれていますが、当時の日中の国民レベルの秩序・モラルは、雲泥の差でした。


宗教の問題

江戸時代まで、美術品の所有者は誰だったのか?と言えば、大名、豪商、寺院、そして神社です。明治時代になると廃仏毀釈により寺院への寄進は激減し、経済的に困窮したのは想像に難くありません。本書でも美術品の流出源として寺院が描かれています。

本願寺は明治にはいってから、経済的な必要性にかられて、何度か大きな競売を行った。


経済の問題

幕末に開国して以降、外国製品の流入により、日本は大変な輸入超過、貿易赤字に陥いりました。明治になり、茶・生糸と並ぶ重要な輸出品が美術工芸品でした。そして、日本の美術工芸品は日本人が思っていた以上に欧米人を魅了します。

わずか二十数年前にペリー提督によって「発見」された極東の小国が、これほどの美意識と技術を持っていることに、人びとは心底驚き、同時に惹きつけられたのである。

明治時代から大正時代にかけて、大変な日本ブーム・中国ブームが沸き起こります。


関連リンク

ボストン美術館にも所蔵されている

葛飾北斎・富嶽三十六景の『神奈川沖浪裏』


La gran ola de Kanagawa (神奈川沖浪裏) / nyatsuki クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。


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日米関係史の側面

軍部の暴走により日米開戦に至った、戦前日本は軍部に牛耳られた暗い時代だったと一般的には認識されていますが、必ずしも正しくありません。日本人もアメリカ人も、誰も好んで戦争はしたわけではありません。アメリカで事業を営み、アメリカに取り残されてしまったヤマナカ商会の視点から見ると、戦前の日本とアメリカが保護貿易主義でお互いが自分の首を絞め、抜き差しならぬ関係となり、戦争へ転落した道を歩んでいった様子が本書を通じてよく分かります。


友好的だった日米関係

1930年代を通じて、ビジネス面での日米関係は大変友好的です。通常の戦前史では決して語られない側面です。ヤマナカ商会のニューヨークの拠点は、ロックフェラーが所有するビルに入居していました。本書表紙の写真がそれです。ロックフェラー二世はヤマナカの得意客でもあり、ヤマナカがアメリカの富豪たちと良好な関係を築いていた様子が伺えます。1939年には日米通商航海条約が失効しましたが、日米関係が悪化していく中でも、取引関係に変わりはありませんでした。


雲行きが怪しくなり状況が一変したのは1941年になってからです。7月2日に日本が仏印南部への進駐を決定すると、日米関係の亀裂は決定的になります。


日米の転落、ヤマナカ商会の解体

1941年7月25日、アメリカで在米日本資産凍結令が公布されました。日米の往来が禁止されたのみならず、通信手段も凍結されました。ヤマナカ商会を初めとする在米日本企業は、日本との連絡を取ることもできず、完全に孤立してしまいました。


戦争の火蓋が切って落とされると、ヤマナカ商会はAPC(敵国資産管理人)の支配下に置かれ、解体へと向かいます。ヤマナカ社員にとってはなんと無念だったでしょうか。しかし、戦争が始まったのにもかかわらず、日本人もアメリカ人も、鮮やかなほど紳士的でした。戦争開始後も店舗での販売は許され続けました。しかし一方で、APCによりヤマナカの在庫は競売にかけられていきました。APCの報告書によると、APCがヤマナカから吸い上げた収益は74万6000ドルとのことです。三井物産の接収資産が2000万ドル、三菱商事が545万ドルであったことを考えると、決して少ない額ではありません。


ヤマナカで働いていたアメリカ人社員が、戦後、競売で売られたヤマナカの美術品を密かに買い集め、大阪の山中本社にニューヨークでの再起を促すシーンがあります。ヤマナカはニューヨークでの再開は果たしますが、結局はうまくいかずに閉店しました。ヤマナカがアメリカ人社員と強い絆で結ばれていたことは、本書における唯一の救いと言ってもよいかもしれません。


そして最後に筆者は次のように締めくくります。全くの同感です。

 山中商会が東アジア美術をアメリカに紹介した先駆者的存在で、また日米親善の陰の力持ちでもあったことを思えば、その運命の逆転ぶりは、やはり無惨だった。

 戦前の山中商会のような美術商は、後にも先にも存在していない。私たちは、過去を振り返って、今その全貌を知る必要がある。


日米関係史の関連書籍

いくつかの日米関係史を挙げておきます。



自虐史観にとらわれることなく、なぜ日本とアメリカが戦争の道へ転落していったかが、よく分かります。20世紀後半、ソ連を敵視し、21世紀、イラン・イラク・アフガニスタンを敵視したように、20世紀前半においては、アメリカは当時の新興国日本を敵視していました。世界恐慌後の保護貿易によってお互いがお互いを追い詰めていく様は、『ハウス・オブ・ヤマナカ』で生々しく描写されています。



「在米日本資産凍結令」を検索したところ、本書がでてきました。石油禁輸ではなく、「在米日本資産凍結令」こそが日本の息の根を止めたとあります。『ハウス・オブ・ヤマナカ』での描写と一致します。『ハウス・オブ・ヤマナカ』は、戦前の日米関係史を紐解く一級の資料と言えます。


追伸


2019.04.29 読書会での紹介を契機に、文体を「だ・である調」から「です・ます調」に変更の上、再編集しました。



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