スクリーンに固着していないか?


前回のブログ記事※1で、スマホというスクリーンに固着しすぎていないか?という問いを立てました。実はそう考えるようになったのは、この本を読んだからです。


※1[読書]『不格好経営』 この本と南場さんを私は評価しない


<目次>

プロローグ 巨大な部屋

序章

Ⅰ ちながりに満ちた暮らしのミステリー

 第1章 忙しい!とにかく忙しい!

 第2章 母との電話を「切った後」に訪れた幸福

 第3章 携帯が使えなくなって気づいたこと

 第4章 なぜ「メール禁止デー」はうまくいかないか

Ⅱ 「適度につながらない」ための知恵

 第5章 プラトンが説く「ほどよい距離」の見つけ方

 第6章 セネカが探訪する内面世界

 第7章 グーテンベルクがもたらした黙読文化

 第8章 ハムレットの手帳

 第9章 フランクリンの「前向きな儀式」

 第10章 自宅を安息の場にしたソロー

 第11章 マクルーハンの「心のキッチン」

Ⅲ 落ち着いた生活を取り戻す

 第12章 無理のない「つながり断ち」7つのヒント

 第13章 インターネット安息日

エピローグ 再び巨大な部屋

訳者あとがき


我々は、パソコンやインターネットの登場により、常にデジタルな世界につながっています。つながることによって、我々の仕事も生活も便利になりました。しかし、「つながる」ことによって失ったものもあるのではありませんか?失ったもの、それは時間です。常につながってしまっているがために、常に忙しさに振り回されてはいないでしょうか?


著者はデジタルな世界と我々を結ぶインターフェイスを、象徴的に「スクリーン」と呼びます。我々は、スクリーンに縛り付けられ、その結果、熟慮する時間や家族との団欒などの時間を失ってはいないだろうか?そう著者は問いかけます。


有史以来の新たなメディア


歴史を紐解けば、有史以来、新たなメディアが登場するたびに、便利になる反面、情報過多に陥り、忙しさに追われるようになりました。本書では7人の歴史上の人物(一部架空の人物)を取り上げています。当時の人たちが新しいメディアにどう向き合っていったのかを解説することによって、現在我々が直面している事態に対して示唆を与えてくれます。


ソクラテス・グーテンベルク・ソロー


たとえば、プラトンによれば、恩師ソクラテスは当時ブームになった「書き言葉」の有用性を理解しようとはせず(ゆえにソクラテス本人の著作物は存在しない)、「話し言葉」である「対話」を重んじました。また、ギリシャ時代、アテネという都市こそが「新しいメディア」だったと言えます。プラトンは時に都市の喧騒を離れ、自分と向き合う時間を作ったようです。


中世ヨーロッパでは、グーテンベルクの印刷機の登場により、「印刷物」という新たなメディアが登場しました。「活字」の登場により「手書き」が廃れるどころか、かえって「手書きブーム」が巻き起こったそうです。グーテンベルク登場以前、人々は書くこと以前に読むことすらできませんでした。しかし、グーテンベルクの印刷機の登場により、文字を読む機会が爆発的に増大し、そのことが「手書き」需要を喚起することになったのです。一世紀後のシェイクスピアの時代、「手帳」がブームになったそうで、ハムレットも手帳を持ち歩いていました。


19世紀半ば、モールスらにより電信サービスがスタートすると、瞬時に遠方の情報が伝わるようになりました。今我々はインターネットのもたらす情報の洪水にさらされていますが、19世紀の人たちも、電信によるメッセージの洪水にさらされました※2。『ウォールデン-森の生活』の作者ヘンリー・ソローは、都市の喧騒を離れ、森に住みました。しかし、都市からほどよく離れた距離であり、全く友人たちと交流を経っていたわけではありません。


我々も、ソクラテスやソローにように、喧騒を離れることはできないでしょうか?スクリーンをオフにすることはできないでしょうか?



スクリーンから離れよう


本書の著者パワーズは、土日にモデムの電源をオフにし、家族の団欒を優先させる生活を始めたとのことです。インターネットと切り離された生活は、当初は不便でしたが、徐々になれていき、取るに足らないものへと変わっていったとのこと。「スクリーンにへばりついていた心が引き剥がされた」と言います。


そして私も決めたのです。電車ではスマホを触らないと。仕事でもプライベートでもPCと向き合っています。移動時間ぐらい、オフスクリーンになって、読書を堪能しようではありませんか?


言葉の深みを味わい尽くそうではないか。





↓↓参考になったらクリック願います↓↓
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村