織田信長x明智光秀


『麒麟がくる』第28回を見ていて、気づいた点が2点あります。



なぜ織田信長が戦国大名の競争で一歩抜きん出たか?

思っていた以上に将軍の権威を利用できたことが大きかったこと。第28回時点では、将軍を粗雑に扱う気配は感じられません。信長自ら将軍の権威のおかげであることを吐露しています。


これまでの信長を扱った大河ドラマのほとんどは、信長、秀吉、家康のいずれかが主人公か、その近習の者が主人公かのいずれかでした。どちらかというと信長の上から目線の描き方で、足利義昭はしょぼい役柄で、信長によって無様に扱われる描かれ方が多かったように思います。


ところが『麒麟がくる』では、主人公明智光秀がこの時点で主君として仕えるのは足利義昭であり、武力はないものの、人格的には名君として描かれ、ちゃんと義昭 vs. 信長を主従関係として描いています。本当の人物相関はそうだったのではないでしょうか。


結果的にその後信長がのし上がったため、早期に信長優位の歴史観が形成されましたが、事実は将軍の権威にひれ伏す一大名に過ぎなかったのかもしれません。そもそも義昭が最初に頼ったのは朝倉義景です。もし仮に義景が義昭を奉じて上洛すれば、形成は義景有利に傾いたでしょう。


信長と光秀の隙間風

外様でありながら信長の下で大出世を果たしたことから、当初は信長と光秀の主従関係はそれなりに厚かったのではないかと思っていましたが、そうではないのかもしれません。今のところ、直接の家臣ではなく、やや対等に近い立場で描かれています。27回では、スカウトしたのに臣従しない光秀に信長が隙間風を感じたのに対し、28回では、神仏を蔑ろにする信長に光秀が隙間風を感じました。


信長が神仏を蔑ろにしていた様として、二条城の建設資材として石仏が破壊される様が描かれています。二条城の石垣に石仏が利用されたのは事実とのことで、Wikipediaで確認すると、1975年から1978年の京都地下鉄建設の折に石垣に使われた石仏が発掘されたとのこと。こうした現代になってからの考証がしっかり反映されるところが大河ドラマの楽しみの一つでもあります(『おんな城主直虎』でも、昨今有力になってきた説である、本能寺の変に際して光秀と家康が密通している様が描かれていました)。




さて、神仏を蔑ろにする信長はこの後、延暦寺を焼き討ちし、石山本願寺を攻め滅ぼします。信長に違和感を感じた光秀は、どのような心境で延暦寺焼き討ちと石山本願寺攻めに携わっていくのでしょうか?


こうした一つ一つの経緯が本能寺の変へ至る伏線として練り込まれてくるのだろうと思うと、今後の信長と光秀の関係の描かれ方に目が離せません。


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