過去と他人は変えられないが未来と自分は変えられる



昨日の「ひとり親を救え!プロジェクト」についての所感・・・について、少し言いたいことが中途半端に終わってしまった気がするので、続きを書きます。本人が読むか、本人と会う機会が今後あるかどうかはともかく、本人を目の前にしてもそう語るつもりで、書き綴ってみます。


他人と過去は変えられないが

You cannot change others or the past.

自分と未来は変えられる。

You can change yourself and the future.

と言われます。


「他人を変えることはできない」あるいは「変えることができても容易ではない」ということを忘れて他人を変えようとすることは、たとえ善意のつもりであったとしても、傲慢で、おこがましく、人を見下しているような印象を聞き手(読み手)に与えないでしょうか?


一般論として、ソーシャルメディア上での流儀では、他人のことを指し「あなたは〇〇をすべきだ」という二人称や三人称を主語にするのではなく、「私は〇〇をすべきだと思うので私はそうする」と一人称で語ったほうが、聞くほう(読むほう)としては耳障り(目障り)がよいのだと思います。


せっかくの駒崎さんの善意の取組みが、このツイートで台無しです。



私を主語として、思うままに書き出してみる


駒崎さんに対し、「あなたはこのような発言を慎むべきだ」ということは言いません。それをやると、水掛け論になってしまい、平行線にしかなりません。なので、このツイートに対して(人格に対してではなく)、私を主語として、思うままに書き出してみます。


  • 自分のように社会貢献しない人を見下していると私も感じます。常見さんが言うところの「社会貢献アピール」をしている自意識過剰な「意識高い系」に私も感じてしまいます。本人にその意識があるかどうかは関係ありません。問題は、二人称で語ってしまっていることが原因です。二人称の表現は余計です。


  • そのように私が感じるのは、いわゆる「社会貢献活動」が、それを担っている人が思っているほど、実はそんなに偉くない、と私が考えているためです。


  • そもそも、会って話せば済む話です。面と向かって、そう啖呵を切ることができるのだろうか?と考えると、私にはできません。冒頭述べたとおり、駒崎さんを目の前する機会があったとしても、私はこのブログ記事に書いていることを淡々と述べます。


  • 「他人を変えることはできない」ことを忘れると他人を見下している印象を与えるということを分かっていない人が、「社会貢献」を語るということに違和感を感じ、さらには危険性を感じます。そして、その危険性が露呈してしまいました。今回の一連のやり取りによって「社会貢献はそれを担っている人が思うほど偉くない」という私の認識を再補強する結果になってしまいましたし、駒崎さんの一連のツイートを見ても、誤解されることがあることを吐露しているわけですが、その誤解の原因を自分自身で作ってしまっているのではないかと私には受け止められます。


  • 駒崎さんの善意の取組みが損なわれてしまい、残念でなりません。


  • もし、私が駒崎さんの立場になったら、常見さんにお会いし、ひと言「ごめんなさい」とお詫びします。それですべて丸く収まります。お互い、善意の人です。反目しあう理由など何もありません。


あとがき


常見さんは直接面識があるため、どういう面持ちで一連のツイートをしているのか、声のトーンなりが分かります。一方、駒崎さんについては、著者を読みましたが、直接面識がなく、声のトーンも知りません。なので、「文字」がそのままグサっとささります。著書は、非常に共感できるところが大きいです(書評参照)。私の以上の論評は、中立な立場で書いたつもりですが、面識の違いにより、どちらかというと常見さんのほうに感情移入してしまっていますので、その点ご容赦下さい。一応、三方(駒崎さん、常見さんにプラス今さん)の本を読み、三方の考え方を知った上で、今回のそれぞれのツイート・ブログ記事全体を俯瞰した上で述べていますので、そんなに間違ったことを言ってはいないだろうと認識しています。


話は変わりますが、前記事を書いた後、実姉がいいね!をしてくれたのですが、その姉が一時期母子家庭だったということをすっかり忘れていました。無自覚だったのですが、前記事の「私の解」に至った理由の一つが、姉を見ていたからだと思います。姉のことを思い出しても、常見さんが反対したあのキャンペーンのタイトルはちょっと違うな、と感じます。



追伸:23:30

二人にTwitterでお知らせしました。



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