南シナ海
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現在の日本の安全保障上の課題といえば、中国です。南シナ海の環礁での基地建設、東シナ海での油田開発、そして尖閣諸島を狙う挑発行為。一体なぜ、中国は海洋覇権を目指そうとしているのでしょうか?日本列島、台湾によって、太平洋の航路が塞がれているので、太平洋へ出るための策だとする説、エネルギー安全保障説などいろいろあるけれど、かつて、明の時代に中国も海洋覇権を手に入れようとしていた時期を思い出し、その立役者である「鄭和」について調べてみようと思ったのが、本書を読もうと思ったきっかけです。読書日記人気ランキング


<目次>
  • 第1章 海のラクダの時代への転換と二つの「大航海時代」
  • 第2章 モンゴル帝国の攻防とユーラシア・ネットワークの変動
  • 第3章 大地からのうねりと中華秩序の再建
  • 第4章 中華帝国の世界秩序をめざし陸・海に派遣された宦官たち
  • 第5章 時代の激浪と鄭和の生い立ち
  • 第6勝 大海を渡った27000人の艦隊
  • 第7章 鄭和艦隊の航跡
  • 第8章 ジャンクによる壮大な海の時代の終焉
  • 第9章 大艦隊派遣を支えた造船業と航海技術
  • 第10章 「大航海時代」以前のアジアの海 鄭和艦隊を支えた海洋世界
  • あとがき
  • 引用・参考文献


目次をベースに、ざっと本書の内容を紹介すると、第4章までは鄭和が登場するまでの中国を中心とした海洋史、第5章から第7章が鄭和について、第8章から第10章が、背景や周辺技術です。ざっと、年表を振り返ると以下の通り。


  • 1271年 クビライ国号を大元とし、首都を大都(北京)に置く
  • 1274年 元寇(文永の役)
  • 1276年 南宋滅亡
  • 1281年 元寇(弘安の役)
  • 1368年 元滅亡、朱元璋、明を建国し、首都を南京に置く。
  • 1371年 鄭和、生まれる。
  • 1402年 三代目永楽帝即位
  • 1404年 足利義満を日本国王に封じる
  • 1405年 鄭和第一次遠征
  • 1424年 永楽帝逝去
  • 1425年 第五代宣徳帝即位
  • 1431年 鄭和第七次遠征
  • 1434年 鄭和死去



大航海時代


本書では、大航海時代を第一次から四次まであったとしています。第三次と第四次は日本でもお馴染みですが、それ以前に2つの大航海時代があったと指摘しています。


第一次は、2世紀から始まり、インド洋をダウ船とい舟がアフリカ東海岸、ペルシア、インド、東南アジア、さらには中国まで結んだ時代です。第二次は、ジャンク船の時代で、宋・元の時代に大きく発展した船で、中国沿岸から東南アジア、インド、ペルシアまでを目指しました。鄭和の大遠征も、その延長線上にあります。


第三次はお馴染みのポルトガル・スペイン、のちにオランダ・イギリスによる大航海時代、15世紀から17世紀。第四次は18世紀の蒸気船による時代で、アヘン戦争や日本への黒船来航へと繋がります。
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ユーラシア統一から中華秩序への回帰


元の時代、モンゴル草原の騎馬軍団、そして当時発明されていた羅針盤の登場により、海と陸の両面でユーラシア大陸が統一され、自由市場、全ユーラシア的な秩序が登場しました。イタリア人のマルコポーロが北京を訪れたということは、ユーラシア大陸を自由に行き来できたことを意味します。


しかし、この秩序は、従来の中華思想と相反します。モンゴル人が建てた元が破れ、中国人の明の時代になると、中華秩序・冊封体制への回帰が図られます。北方の脅威であるモンゴル人との境界には万里の長城が再建されます。今日も存続している万里の長城は明時代のものです。そして、海上では、民間船の私貿易は禁止され、国家主導の朝貢貿易が再開されました。宋・元の時代に造船技術が飛躍的に向上していたこともあり、後に鄭和は27000人という大船団を組むことができたわけです。


鄭和の大航海


元の時代、イスラム教徒も自由に交易することができました。現在でもウイグル地区にイスラム教徒が多いのはそのためなのでしょう。雲南地方出身の鄭和もイスラム教徒でした。しかし、明政府は中華秩序へ回帰するため、周辺の少数異民族を蹂躙し、奴隷としていたようです。鄭和も少年時代に連れ去られ、去勢され、第三代永楽帝の宦官になりました。


鄭和は、朝貢貿易・冊封体制確立のため、南方へ送られます。アユタヤ、ベトナムのクイニョン、インドネシアのスラバヤ、マレー半島のマラッカまで冊封体制下に入ります。さらにベンガル、インド洋のスリランカ、南インドのコーチン(カリカット)に到達します。ここから先はイスラム教徒に先導され、ペルシアのホルムズ、アラビア半島、アフリカ東海岸のマリンディ(ケニア)まで到達します。そして、中国では空想の動物であった麒麟を中国に持ち帰ります。読書日記人気ランキング


なぜ海外遠征を続けなかったのか?


鄭和没後、なぜ、明による海外遠征が続かなかったのでしょうか?理由は二つあったようです。一つは、北方からの脅威。永楽帝自体のたびたび北方に遠征し、その道中で没します。北方の脅威は、今日まで残されている万里の長城が証明しています。大艦隊遠征と北方の守り、両面を財政的に支えるのが困難だったようです。


もう一つが、焚書です。鄭和の航海記録は、燃やされてしまいました。海流の流れや航路などが書かれた書類がなくなっては、マラッカ海峡を超え、インド洋へ達することはできません。官制貿易が衰退したため、私貿易が復活、倭寇などが活躍する時代になります。


海外遠征の停止がもたらした転落


鄭和の航海記録は秘密裡に残されたため、今日でも見ることができるのですが、しかし、明、そして次の清の時代へと海洋技術が伝承されることはなく、海からの脅威に抵抗する術をなくしてしまいます。鎖国政策をとり、世界と交わりのなくなった明、そして清は、19世紀になると、イギリスの蒸気船が極東に訪れるようになり、海からの侵略に為す術をなくしました。アヘン戦争で敗れ、日清戦争で敗れ、義和団の乱により欧米列強の侵略を受け、ついには清が滅び、軍閥による群雄割拠の末、日本と泥沼の戦争をし、戦後、中華人民共和国が成立しても、大躍進政策や文化大革命で失敗と、実に15世紀半ばから20世紀半ばの約500年間、転落し続けたことになります。


こうして歴史を俯瞰して見てみると、焚書、鎖国政策というのは、人類の叡智を失い、衰退をもたらす最悪の愚策と言えます。


毛沢東が亡くなり、鄧小平が改革開放路線に舵を切った1978年以降、中国は衰退の道から成長の道へと反転し、2010年になってようやく、GDPにおいて日本を再逆転します。


今日の中国の海洋侵出は、長い衰退から復活し、ようやく自信を取り戻した証とも言えます。中国の長い歴史を俯瞰すれば、中国の海洋侵出は、彼らにしてみれば、当然の理屈なのでしょう。しかし、周辺国の日本としては、中華思想・冊封体制の押し付けは、迷惑でしかありません。


明の時代、海洋侵出を止めさせたのは、北方の脅威でした。現在において、中国の海洋侵出の挑戦を食い止める脅威はなんでしょうか?なかなかその答えが見つかりません。一つ言えることは、沖縄の日米軍事力の方針をぶれないことです。


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