大英帝国はかつて世界を制した。

大英帝国

出典:イギリス帝国 - Wikipedia lic:Public Domain



(本記事は、英語圏での慰安婦問題とその対処~ひとまず落ち着こうよの前に執筆完了していました。ですので、慰安婦問題についての英語圏との認識ズレにはふれておりません。)


従軍慰安婦問題の解決を図るには、むろん、日韓関係の改善が不可欠です。いや、逆もしかりです。従軍慰安婦問題の解決と日韓関係の改善は、鶏と卵の関係にあります。まずは、朝日新聞社自らが韓国に出向き、強制連行の事実がなかった真実を伝えしてほしいところです。



ただ、問題はそんなに容易ではないと思っています。というのは、二国間の関係は当事者間の思惑だけで決まらないからです。周辺の国々の様々な思惑が作用します。日韓関係で言えば、中国とアメリカ、そして北朝鮮、最後にロシアです。ここにイギリスがいないだけで、この構図は、日清・日露戦争当時となんら変わっていません。そして今も、日韓関係の改善を望まない国があります。


少し歴史を振り返りたいと思います。前置きが長くなりますが、ちょっとお付き合いください。


<目次>


日米開戦を望んだ国があった


本書を読むまで、日米開戦に向けてのアメリカ側の開戦モチベーションは、太平洋を挟んだ新興国日本に対する脅威が最大の理由だと考えていました。つまり、日本が仮想敵国だったということです。


しかし、腑に落ちない点もありました。というのは、1939年まで、日米関係は比較的良好だったからです。通商状況を見ると、とても戦争に入る関係とは思えませんでした。



『日英同盟』を読んで、だいぶ腹落ちがしました。アメリカ以上に日本を敵対視していた国があったからです。つまり、イギリスです。日英同盟が解消される1920年まで、日英関係は蜜月状態だと思っていましたので、わずか20年あまりの間にまさかイギリスがそれほどまでに日本を憎悪していたとは知りませんでした。イギリスが日本を憎んだ理由は、なによりも日本のアジアでのプレゼンスの向上です。



ナイーブすぎる日本人


イギリスは当時、インド・ミャンマー・スリランカ・シンガポール・マレー半島・北ボルネオ・香港など、アジアにおいても広大な植民地を経営していましたが、日本のアジアへの膨張政策が、アジアで植民地経営するイギリスの何よりの脅威に写ったようです。


(日本の膨張政策に対し)日本の政治目的は大英帝国の部分的消滅をともなうものであり、日英間に協力すべき共通の目的は存在しない。この日本の野望をわれわれが容認できないとすれば、日本の野望を武力で阻止する時がくることを決意しなければならないだろう。(1917年3月の大英帝国会議に配布された「日英関係に関する覚書」より引用)


日本ではアジア主義・興亜論が勃興し、後に大東亜共栄圏を提唱するに至ります。満州の奪取、シナとの戦争状態突入至っては、イギリスが自国の植民地も侵略されかねないとの危機を抱くのも当然でしょう。


現代では、中国の膨張政策が日本を含むアジア諸国の脅威となっています。しかし、当の中国は思いのほか無頓着に見えます。第二次世界大戦前の日本は、今の中国と同じように、自らの膨張政策が他国に脅威を与えていたことに無頓着だったようです。


右寄りの方々には、日本の理念や活動が結果的に第二次世界大戦後のアジアの解放に結びついたと肯定的に見る向きもあります。私もそう考えていました。しかし、それではあまりにもナイーブではありませんか。当時の日本人も今の日本人もナイーブさが変わりません。ヨーロッパ諸国のように国境を接し他国に蹂躙された経験が第二次世界大戦を除き一度もない日本人の悲しい性でしょうか。


第二次世界大戦の最初の二年は調略戦だった

ソ連史 (ちくま新書)
松戸 清裕
筑摩書房 ( 2011-12-05 )
ISBN: 9784480066381


第二次世界大戦は、連合国 vs. 枢軸国という構図で語られます。


<戦後から見た第二次世界大戦の対立構図>

  • 連合国:アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ソ連・中国
  • 枢軸国:日本・ドイツ・イタリア


しかし、実際の構図はそんなに簡単ではありませんでした。日米開戦にいたるまでは、どこの国とどこの国が組むか、お互い疑心暗鬼になりつつ、調略戦を挑んでいたとも言えます。


たとえば、日ソがノモンハンで衝突したかと思えば、ソ連はドイツと不可侵条約を結んで西方の安全を確保し、日本との対決に専念できました。2年の時が経ち、ドイツの動きが怪しくなってきたかと思えば、日ソ中立条約を締結して、東方の安全を確保し、ドイツとの対決に専念しました。本来、日独でソ連を挟み撃ちできたはずなのですが、そうなりませんでした。


ソ連視点の年表を拾ってみます。


第二次世界大戦最初の二年の年表(ソ連視点)


  • (1936年:日独伊三国協商。東に日本、西にドイツに挟み撃ちの構図になる。)
  • 1939年5月11日:ノモンハンで、日ソが衝突。双方合わせて2万人弱の死者が出る(~9月16日)
  • 1939年8月23日:独ソ不可侵条約締結。西方の安全確保に成功。
  • 1939年9月1日:ドイツ、つづいてソ連がポーランドに侵攻。
  • 1939年9月3日:英仏がドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦勃発。


この間、主戦場はドイツの西方戦線(ドイツ対フランス、続いてドイツ対イギリス)でした。


<フランス降伏後の構図(1940年6月~1941年6月>

  • 連合国:イギリス
  • 枢軸国:ドイツ・イタリア・降伏後のフランス
  • 傍観:日本・ソ連・アメリカ


  • 1940年9月27日:日独伊三国軍事同盟
  • 1941年4月13日:日ソ中立条約:これにより東方(日本側)の安全確保に成功
  • 1941年6月22日:独ソ開戦:ソ連の立場で見ると、東方の安全を確保した上で西方で戦争開始


<独ソ開戦後の構図(1941年6月~1941年12月>

  • 連合国:イギリス・ソ連
  • 枢軸国:ドイツ・イタリア・降伏後のフランス
  • 傍観:日本・アメリカ


なんとも不思議です。日独は三国協商・三国同盟関係にあり、ソ連を挟み撃ちにできる関係にありながら、日ソが戦闘状態の時はドイツが不可侵条約を結び、独ソが戦闘状態に入る直前に、日本が中立条約を結びました。


日本にとって、戦前の第一の仮想敵国は、アメリカではなくソ連です。これでは何のための三国軍事同盟を締結したのか、全く意味を成しません。


第二次世界大戦最初の二年の年表(イギリス視点)


そして再びイギリスに視点を戻します。イギリス視点の年表を拾ってみます。


  • 1939年9月1日:ドイツ、つづいてソ連がポーランドに侵攻。
  • 1939年9月3日:英仏がドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦勃発。
  • 1940年5月10日:ウィンストン・チャーチルがイギリス首相に就任
  • 1940年5月10日:ドイツがベネルクス侵攻、戦線がドイツの東側へ移動。実質の英仏対ドイツの戦闘開始。
  • 1940年6月22日:フランスがドイツに降伏
  • 1940年7月10日:バトル・オブ・ブリテン。ドイツ空軍がロンドンを空襲(~10月)


<フランス降伏後の構図(1940年6月~1941年6月>

  • 連合国:イギリス
  • 枢軸国:ドイツ・イタリア・降伏後のフランス
  • 傍観:日本・ソ連・アメリカ


アメリカもソ連も日本もまだ参戦していません。独ソは不可侵条約の関係にあります。イギリスは孤立状態にありました。イギリスがこの苦境を打破するには、ソ連とアメリカに参戦してもらうしかありません。しかし、アメリカは伝統的にヨーロッパでの戦争に不介入主義です。第一次世界大戦の時もそうでした。ですので、アメリカが戦争に参加するには、口実が必要です。


誤解を恐れず言葉を端折って短絡的に申せば、ウィンストン・チャーチルと蒋介石が組んでフランクリン・ルーズベルトを日米開戦に引きずり込んだ、と言えます。1941年7月から8月にかけての在米日本資産の凍結、日本への石油禁輸により、日本は追い込まれました。


結果的に、1941年6月に独ソ開戦、1941年12月に日米開戦により、ソ連とアメリカをイギリス側につけることに成功しました。


<日米開戦後の構図(1941年12月~>

  • 連合国:イギリス・ソ連・アメリカ
  • 枢軸国:ドイツ・イタリア・降伏後のフランス・日本


「二国間関係は当事者間の思惑だけでは決まらない」のまとめ


日米開戦に至った経緯を題材に、「二国間関係は当事者間の思惑だけでは決まらない」ことを解説しました。特にイギリスの思惑に影響を受けました。ソ連にも振り回されました。外交においては、日本とドイツよりもイギリスとソ連が上手だったと言えます。


18世紀から20世紀前半まで、イギリスが世界を制したのには、それなりの理由があったわけです。単に軍事的に強いだけでなく、調略も世界一でした。インテリジェンス能力がアメリカよりもイギリスのほうが上であることは、鈴木宗男とともに逮捕された外務官僚・佐藤優一氏も述べています。


ですので、日韓関係も、二国間だけで関係改善をするのは難しいように思います。日韓両国との関係が深い国の思惑が強く作用していると考えられるからです。


後編につづく。(構想を練り直していますので、ちょっと時間をください。すぐには公開できません。)




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