<目次>
  • 序章 ヨーロッパ化した世界
  • 第一章 軍事革命と近代国家
    • 1 軍事革命とは何か
    • 2 近代国家の誕生
    • 3 中央集権国家イギリス
  • 第二章 近代世界システムの誕生
    • 1 近代世界システムとは何か
    • 2 アントウェルペンからアムステルダムへ
    • 3 近代世界システムに貢献した事物
  • 第三章 大西洋貿易とヨーロッパの拡大
    • 1 弱いヨーロッパ
    • 2 ヨーロッパの拡大
    • 3 大西洋貿易の台頭
    •  4 イギリス海洋帝国の大西洋貿易
  • 第四章 アジア進出とイギリス海洋帝国の勝利
    • 1 ヨーロッパとアジア
    • 2 異文化間交易と商品連鎖
    • 3 ヨーロッパのアジア進出
    • 4 ポルトガル海洋帝国とイギリス海洋帝国
  • 終章 近代世界システムの終焉
  • あとがき
  • 主要参考文献



前項では、世界史上覇権を為し得た条件として、軍事力と情報力があり、それが今のアメリカにも当てはまることを述べました。



今回は、ポルトガルも含めた4か国の日本史との接点を見ていきます。なお、ここで述べていることは、本書の書評ではなく、私の考察です。年号は主にWikipediaの記述を参照しました。

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ポルトガル:鉄砲とキリスト教の伝来

1498年にバスコ・ダ・ガマが喜望峰経由でインドに到達すると、1511年にはマラッカを占領、インド洋からオスマン帝国を排除します。ポルトガルも、のちのオランダもイギリスも、アジアではけっこう悪どいことをしています。

1543年には日本に鉄砲を、1549年にはキリスト教をもたらします。そして1557年にはマカオに居留権を獲得。織田信長が南蛮貿易に勤しんでいたのは1570年代でした。ポルトガルの最盛期はこのころかもしれません。


1580年にはスペインと同君連合となりハプスブルク家配下になり、1587年には豊臣秀吉によるキリシタン禁止令、1639年には日本へのポルトガル船来航が禁止されます。


1640年、スペイン支配から脱出するも、1641年にはマラッカを、1658年にはセイロンをオランダに奪われ、インド洋の覇権を失います。

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オランダと鎖国下の貿易独占

一方オランダは、16世紀後半からハプスブルク家と戦闘状態に入ります。1600年には最初のオランダ船が日本に到達し、1602年には東インド会社が設立。1619年ジャカルタ占領、1624年台湾占領、1639年日本との貿易独占、1641年マラッカ占領、1652年ケープ植民地設立、1658年セイロンと、アジアへの航路の独占体制を敷いていきます。


日本が鎖国に至った理由

日本史では、キリスト教を布教しようとするポルトガル人の来航を禁止し、鎖国が成立したことになっていますが、こうしてみると、日本がポルトガル人の来航を禁止しようがしまいが、オランダからポルトガルは駆逐されました。それほど、オランダのアジアにおけるプレゼンスが強大だったといことになります。


アジアの各拠点を占領したオランダも、日本だけは占領できていません。日本が一番遠いという不利な条件もありますしたが、戦国時代を経験した日本の武力が勝っていたためと私は考えます。

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イギリスと幕末日本

1853年、ペリーの来航により、日本は翌年開国しましたが、1861年に南北戦争が勃発したことにより、日本との貿易どころではなくなり、日本と西洋との貿易は、イギリスが優勢に立ちます。


幕末、薩長側にイギリスがつき、幕府側にフランスがつきました。なぜ薩長が幕府の力を凌駕したのだろうかというのが長年不思議でしたが、謎の一つが解けました。薩長と幕府の戦いをイギリスとフランスの代理戦争と見れば、イギリスの武力がフランスを圧倒していたことが理由と考えらえます。前後して、イギリスのアジア全域の動きを見ていきます。


イギリスとアジア

19世紀初頭、ナポレオン戦争が起きると、オランダはフランスに占領。そのどさくさに紛れ、オランダのケープ植民地、セイロンを占領、1819年シンガポール上陸、1826年、オランダよりマラッカを奪取。1840年アヘン戦争が起き、1853年クリミア戦争が起きると、ロシア艦隊を追ってイギリス船が長崎に来航します。1856年アロー号事件が起き、再び清と戦争になり、1860年香港の割譲を受けます。こうして、アジアにおける海洋覇権がオランダからイギリスに移りました。


薩長のほうが幕府よりも近代兵器を有していたと言われます。アジアの貿易拠点を押さえていたのはイギリスだと考えると、武器の輸送もイギリスが上手だったことが想像できます。薩長と幕府の武器の差は、イギリスとフランスの武器輸送力の差と見ることができるのではないでしょうか。


明治維新後、陸軍はドイツに学び、海軍はイギリスに学びました。日清・日露戦争で戦った戦艦はイギリス製です。1902年、日英同盟を結んだのは、正しい選択と言えます。覇権国家と組めば、覇権国家と戦争する必要がありません。その後、アメリカの策略により1920年に日英同盟が廃止され、イギリスの後ろ盾を失った日本は迷走し始めます。

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アメリカと日本

第一次世界大戦でヨーロッパが焦土化したことにより、英米の逆転が生じました。そして、日本はアメリカと競い、敗れてしまいました。戦後、日本は新たな覇権国家アメリカと同盟関係を結び、今日に至ります。


中国に対抗するために日米安保が必要だと言われます。一方、日米安保があっても、アメリカは日本を守らないであろうとも言われます。しかし。。。


日英同盟を廃止した日本が英米との戦争を余儀なくなされたことを考えると、日米安保は必須だと考えます。中国への抑止力だけでなく、アメリカとの戦争を避けるためにも。


以上、覇権国家と日本史上の接点をまとめると、以下の図のようになります。


覇権国家と日本史


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