前記事にて、マインドフルネスとは都会の喧騒から離れて自然へ回帰することではないかと考察しました。このことについて、もう少し深く考察したいと思います。


遠ざかる自然

ヨーロッパでは19世紀以降、日本でも20世紀以降、農村から都市へ人口が移転しました。この流れは、現在アジアやアフリカ諸国で起きており、世界的に都市への人口集中が起きています。


都市は便利です。物質的欲求や知的欲求を満たすには。しかし一方で、自然に触れあう機会が激減しました。


私が小学生の時、住んでいたのは名古屋市郊外の豊明市というところですが、カブトムシ狩り、ザリガニ釣りなどを行ったものです。カブトムシが採れる雑木林、ザリガニが釣れる自然の池が近所にあったのです。ところが、現在の東京の我が家のまわりには、そのような雑木林や池がありません。カブトムシはスーパーで購入するよりほかありません。


物質的欲求や知的欲求を満たして大脳は満足でしょう。しかし、自然から遠ざかったことにより、小脳や脳幹などの本能はどう感じているのでしょうか?


シンギュラリティ

21世紀半ばに向けて、コンピュータとインターネットの進化により人工知能が人間の知能を超越する時が来るだろうと言われています。いわゆる「シンギュラリティ」です。


この用語を提唱したレイ・カーツワイルによれば、「100兆の極端に遅い結合(シナプス)しかない人間の脳の限界を、人間と機械が統合された文明によって超越する」瞬間の事である



つい最近のことですが、既に人類は歴史上何度かシンギュラリティに遭遇したという記事を何かで読みました(失念しました)。少し歴史を振り返ってみたいと思います。


「文字」

話しを元に戻し、19世紀から20世紀の都市化は、識字率の向上をもたらしました。「文字」が読めるのと読めないのとでは、全く世界観が変わります。識字率の向上が現代社会を作っているのは間違いありません。


文字の発明そのものは紀元前にさかのぼります。文字がある一定層に普及した中国春秋時代やギリシャ時代は、今日知られる多くの哲人を生み出しました。ブッダ、孔子、ソクラテスはほぼ同時代人です。


ソクラテスは新しいメディアである「文字」を受け入れず、言葉による対話を重視しました。ソクラテスは文献を一切残さず、ソクラテスの言葉はプラトンにより後世に残されました(いわゆる『ソクラテスの弁明』)。裏を返せば、ソクラテス以前の伝説が史実なのか神話なのかもやがかかってよく分からないのは、口頭伝承でしか残されていなかったからです。同じことが中国史にも言え、周が登場する前の殷や夏時代は、やはり史実なのかどうか判別できません。


こうして「文字」の歴史を振り返ると、文字の獲得も「シンギュラリティ」と言えます。


「インターネット」

同様のことは、20世紀末から現在まで起きているインターネットとモバイル環境も同様です。常にインターネットを通じて人と人がつながることを可能にしました。それまでは、遠く離れた友人の動向を知ることはできませんでした。インターネットの登場もある種の「シンギュラリティ」と言えます。19世紀に発明された「電気通信」も「シンギュラリティ」と言ってよいかもしれません。



「言葉」と「知覚」

「文字」よりさらに遡って、言葉の獲得自体も「シンギュラリティ」と言えます。ネアンデルタール人と我々ホモ・サピエンスを隔てたのは、「言葉」の有無でした。体格が大きくほぼ同等の大脳を持っていたのにも関わらず、言葉を話さなかったネアンデルタール人の系統は途絶えました。


我々は言葉を介し、「意識」があると実感し、「思考」し、「概念」を説明し、自分の心のありようまでも「説明」しようとします。もし言葉がなければ、心のありようを説明することもできなければ、「意識」もないのかもしれません。


言葉を発しなかった赤ん坊時代の「記憶」がありません。「記憶」とは「言葉」によって蓄積されるものであって、「言葉」がない時代に「記憶」することはできないのでしょう。ということは、人類以外のいかなる動物も、赤ん坊と同じように「知覚」による「記憶」がないということになります。


しかし「知覚」による「記憶」がなくても、「身体」による「記憶」はあります。だからこそ、いかなる生物も進化を遂げます。「知覚」は人類固有の大脳が司りますが、「身体」は小脳・脳幹などの古い脳、さらに遡れば遺伝子が司るということになるのでしょう。


「文字」と「インターネット」を保留する

前記事で、「マインドフルネス」が働きかけているのは、知覚・思考・記憶のレイヤーではなく、生理的欲求のレイヤーではないかと述べました。人類は「言葉」、「文字」、「インターネット」の発明により、「知覚」を伸ばすことができました。しかし、高度化した「知覚」に対し、「身体」や「生理」が追いつかず、乖離が生じているのかもしれません。「マインドフルネス」にしろ「坐禅」にしろ、「知覚」を保留し、自らの「身体」に向き合うことだと理解しています。「言葉」を保留する(無の心境になる)のはとても難しいことですが、「文字」や「インターネット」を保留することは可能です。


マインドフルネスを、自分の身体に向き合った平穏な状態を取り戻すことだとすれば、「文字」を「インターネット」を遮断することが必要になると思うのです。


歴史の流れとマインドフルネス


マインドフルネスに関する記事


関連書籍

「知覚」(新しい脳)と「身体」「生理」(古い脳)の乖離は、「選択理論」の基礎になっています。


テイクチャージ 選択理論で人生の舵を取る
ウイリアム・グラッサー
アチーブメント出版 ( 2016-09-09 )
ISBN: 9784866430010


Disclaimer

「マインドフルネス」を正しく理解しているわけではありません。理解不足により記載内容に誤りがあるかもしれませんが、ご了承ください。



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