学校公開日
credit : 栗山ナツ さん via ac-illust.com利用規約
親が授業を見に来ていれば子どもは親の目を意識します。



本日、小学校の学校公開日でした。


5人子どもがいる私は、小学校の学校公開日に親として行き始めてかれこれ14年目になります。自分が子どものころ、学校公開日、当時は授業参観日と言いましたが、年に1回の行事だったと記憶しています。親は正装してきたように思います。


ところが今は年に8回、少し前までは年に10回ありました※。年に10回というのは、新学期の4月と夏休みの8月を除く全ての月です。さすがに先生の負担が大きいのか、5月と3月も除外され、合計8回になりました。これまで、恐らく8割がた参加しており、8*13*0.8=合計約80回は参加している勘定になります。当ブログでも、過去6年間の間に学校公開日に関する記事を22本書いてきました。



※教育委員会に裁量権があるようなので、文科省による指針はあるのかもしれませんが、自治体により異なるようです。


そこで見えてきたのが「貧困の再生産はない」です。ただしここでは「貧困の再生産」=「努力しても貧困を抜け出せない」と定義します。


小学校1年生のクラスを覗けば、だいたい6~7割の親が参加しています。それが小学校3年になると3割以下になり、6年生になるとクラスに1人から多くても5人ぐらいに減ります。この傾向は毎年ほぼ変わりません。


ところが今回は防災訓練を兼ね、親が子どもを引き取りに来るという訓練も兼ねているため、就業時間には小学6年生でも8割がたの親が来ていました(30人弱のクラスで、親の迎えのない子は5人程度でした)。そして、親の顔ぶれも分かりました。幼稚園が同じだった人もいるので何人かは知っていますし、ほとんど知らない人もいます。


今日の小学六年生の2時間目の授業は算数でした。算数は小学校3年生から習熟度別のクラス編成になっています。この時点では親の姿は各教室に数人程度です。小学校6年生にもなると、どの教室が算数ができる子たちで、どの教室ができない子たちか、教室の光景を見るだけで一目瞭然になります。できない子たちは、できない特徴があるからです。


よそ見をしている、頬杖をついている、ぼおっとしている、顔を机につけてだらっとしている。


この子たちの親は学校に来ていないのでしょう。親が見ていたらそんな恰好はしないからです。


この子どもの態度というのは、実は小学校1年生の時からも表れています。小学校1年生のうちから、先生の話を聴いていない、文房具で遊んでいる、ぼおっとしている子どもはいます。私はよその子どもに「先生の話を聴きなさい」と注意したことがありますが、しばらくはよいものの、少し時間が経つと一人で鉛筆を転がして遊び始めてしまいます。私が注意をしているのに親が現れないのは、親がそこにいない証拠です。


学校で授業を聴かない状況が続き、もし家庭でもフォローがなければ、授業が分からなくなっていくのは当然です。小学校の授業で脱落すれば、中学、高校の進路もほぼ決まり、将来の収入もほぼ決定するでしょう。


今日は防災訓練だったので、8割がたの親が来ていました。普段は学校公開日に来ない親たちです。来ない者同士が会話をしているレベルで、子どもの教育への関心のありなしが分かります。


恐らく担任の先生は、家庭訪問や保護者面談等で、おたくの子どもは授業を聴いていないことが多い、家庭ではどのように躾けをしているのか、家庭でのフォローをお願いしたい、という話を当然するだろうと思います。確認したわけではありませんが、妻が学校の先生から言われていることを考えると、まず間違いないと考えます。ということは、授業を聴いていない態度が一向に改善しない子の親は、その状況を分かっていながら何も躾け・指導をしていないことになります。


つまり、努力して貧困を抜け出せないということはなく、単に親が努力をしていないだけです。貧困なのは、そんな親の態度と精神です。


たとえ親の学歴が低くても、親が貧しくても、自分の子どもにはよい教育機会を与え一人前に育てるのだと覚悟し、そのように子どもに接すれば、子どもは授業を聴き、自分で乗り越える知恵を身に着け、やがて貧困の再生産の道から抜け出せるだろう、そう私は考えます。


お知らせ


現在、未来の学校に関するフューチャーセッションを企画中です。興味のある方はお声がけをください。



↓↓参考になったらクリック願います↓↓
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村