<目次>
  • 第一章 豊臣公儀 秀頼の誕生
  • 第二章 徳川幕府 秀頼の成長
  • 第三章 大阪冬の陣 秀頼の沈黙
  • 第四章 大坂夏の陣 秀頼の最期



前書評では、大坂冬の陣が勃発した理由は、徳川方が方広寺の鐘銘にいちゃもんをつけからではなく、それ以前に織田有楽を中心に織田系と旧浅井系の取り巻き連中が結託して牢人集めをしていたことを挙げました。徳川方と内通していた織田有楽は、本格的な合戦になることを避けるべく、二条城への奇襲や出城築城に反対します。それでも火ぶたは切って落とされますが、戦い早々、和睦に入ります。


大河ドラマ『真田丸』では、次の放送が和睦になりますが、恐らくここでも主導するのは織田有楽でしょう。史実では、有楽は大坂城から去り、隠居し余生を過ごします。


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火種はどこに?


通説では、和睦の条件として、外堀を埋めるだけのはずが、徳川方が勝手に内堀も受けてしまい、大坂側が激怒したことになっていますが、本書によると、和睦条件は、外堀は徳川方、内堀は大坂方が埋めることだったとのこと。内堀埋めの進行が悪かったため、徳川方が手伝っただけのようです。


問題は、内堀は埋めたことではなく、10万人も集まってしまった牢人です。雇える武士の数は100石当り3~4人です。65万石の豊臣家の場合、2万人から2.6万人が相場です。つまり8万人も余剰人員を抱えてしまった形になります。彼らは帰る場所がありません。実際の正規軍は1万人程度だったようで、1万人の正規軍が8万人の牢人を放逐することはできません。かくして、牢人たちは居座ることになります。


牢人たちの退去は和睦の条件でした。ところが退かない。ならば、豊臣秀頼と牢人を切り離すために、秀頼に大坂城から立ち退いてもらう必要がある。秀頼と牢人たちを切り離せば、徳川方は堂々と牢人たちを攻め滅ぼせます。これを通説では、徳川方が秀頼に無理難題を吹っ掛けたように語られています。


そして、秀頼は立ち退かなかった。結果、織田有楽ら首謀者無き後、牢人たちと徳川方との間で再び戦闘が始まってしまいました。


牢人問題


それにしてもです。10万人もの牢人。当時の日本の人口は現在の約10分の1ですので、現在規模で考えれば、100万人です。100万人規模の武装したデモ隊が皇居や国会を占拠したと考えればいいでしょう。安保闘争の比ではありません。仮に東京都の警察の規模が10万人だとしても、100万人の武装したデモ隊を除去することはできないでしょう。


そもそも、それだけたくさんの牢人たちが生み出されたのは、関ヶ原の戦いの後の改易・減封が原因です。毛利・上杉がそれぞれ90万石減封、佐竹義宣34万石減封、改易は宇喜多秀家57万石、長曾我部盛親22万石、石田三成19万石、小西行長20万石、増田長盛20万石。単純計算で、毛利・上杉は3万人規模でリストラ、宇喜多も2万人規模のリストラがあったことになります。



さらなる疑問


しかし、現在でも、数万人規模のリストラがあったら、ただ事ではありません。大規模なデモが発生します。一体どのようにして、これらの大規模な武装解除を為し得たのでしょうか?


本書にその答えはありませんが、本書を読んだことによって気づいた戦国の疑問点です。


つづき:【書評】『大坂の陣---豊臣氏を滅ぼしたのは誰か』その3~戦死者・牢人 : なおきのブログ


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大坂夏の陣屏風



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