「学校」という装置の耐用年数
「学校」という装置の耐用年数が、切れかかっているのかな、と思う。 (P97)
- 出典:『大事なものは見えにくい』
これは、大阪大学総長だった鷲田清一氏の言葉です。最近の言葉ではありません。2004年の言葉です。2004年当時にこの言葉を述べておられたとは・・・この言葉の続きも引用してみます。
一日の同じ時間、同じ年齢の人間が閉じた空間にいる。教室では列をなして同じ方向を向いて座る。一時間、黙って「大人」の言葉を聴く。放課後、課外活動も集団でおこなう。学期ごとに身体検査を受ける・・・。それらにどんな意味があるのか、基から考えなおさなければならない時期にきているようにおもう。 (P98)
鷲田氏は哲学者です。哲学とはまさに「どんな意味があるのか基から考えなおすこと」なのでしょう。
生老病死のアウトソース
そして、鷲田氏はこのようなことも述べています。
生老病死、それはかつてだれもが身近で眼にし、耳にすることがらだった。(中略)
その過程を、「近代社会」はぜんぶ外部のサーヴィス機関に委託するようになった。 (P166)
生老病死というのは、出産、介護、入院、死です。自宅で出産することも、自宅で最期を看取ることも亡くなってしまいました。外部の専門家にアウトソースすることで、事故は減りました。出生率は上がり、寿命も延びました。しかしそれは、他人の力を借りてのことです。
自分の命を他人に委ねてしまったため、自力で守ることが不可能になったとも言えます。
教育のアウトソース
同じことが教育にもあてはまります。
学校という専門家にアウトソースするようになりました。戦前は小学校卒が主流、戦後は中学卒に伸び、1970年頃には高卒が主流となり、21世紀以降は大卒が過半数を超え、このアウトソース期間が伸びたことになります。
子どもの教育を他人に委ねてしまったため、我が子のことなのに、関与できなくなってしまったとも言えます。「いじめ」、「不登校」、「自殺」などの遠因になっているような気もします。
一方的に委ねられてしまった教師のほうも大変です。少なくとも、私が小学生だった1970年代の先生のほうが、ゆとりがあったように思います。総合学習やアクティブラーニングは、教師の事前準備を強いているのかもしれません。ゆとり教育でゆとりが欲しかったのは、教師だったのかもしれません。
私には5人の子どもがいますが、その子育てや学校との関与で感じていることがあります。子どもの教育を、教師が全面的に引き受けることも、親が全面的に引き受けることも、間違っているのではないかと。
社会全体で子どもの教育を包摂することはできないものでしょうか?子どもの教育への関与は大人の
成長も促すのではないでしょうか?
子どもの成長と大人の成長
2年前の長女の高校卒業の際に書いた日記を読み返しました。
先生方からそれぞれメッセージをいただいており、特に中学3年間はずっとPTAクラス委員を務めていたこともあり、中学時の学年主任のY先生の言葉には、胸が詰まりました。生徒たちの6年間の成長を見守っていただき、感謝の気持ちに堪えません。
また、子どもが学校で成長するだけでなく、先生も生徒と接することで成長し、また、親も学校と関わり合うことで成長するのだということも実感できました。
「子どもの成長を通じて大人は成長する」。これは確かなことだと思います。
ならばこそ、子どもの教育を学校にアウトソースしっぱなしでよいはずはなく、今一度、学校と大人の関係を再構築する必要があるように感じます。
学校と大人、学校と社会との関係再構築
前置きが長くなりましたが、学校と大人、学校と社会との関係を再構築する勉強会を催そうと企画を始めました。「大人」というのは、保護者というだけではありません。独身者や子どものいない夫婦も含みます。
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