京都 花街
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<目次>
  • 1 古典と嵯峨
  • 2 白拍子のかくれ里
  • 3 京都はかわった
  • 4 武者をとろけさせる女たち
  • 5 共有された美女
  • 6 王朝の力


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【書評】『京都ぎらい 官能篇 (朝日新書)』 : なおきのブログ


本書は「京都」の本なれど、江戸幕府が開かれる前のほとんどの時期において政治の中心が京都だったこともあり、本書の後半は実質「日本史官能篇」の様相を呈しています。


権力闘争が表の歴史とすれば、それはとりもなおさず男の歴史でした。そして裏の歴史は女の歴史がありました。歴史には不思議な失脚や敗退があります。あれ?なんでこの人が負けちゃったんだろうと。その最たる理由が「女」だったのかもしれません。


この1ヶ月以内に、財務省福田事務次官がセクハラ問題で辞任(本人は否定)、独身の米山新潟県知事が女子大生と援助交際をしていたとのことで辞任、TOKIOの山口達也氏が強制猥褻で無期限謹慎。


女性に関する問題で失脚が相次ぎました。多くの報道は彼等に批判的ですが、長い歴史を俯瞰すれば、古今問わず普遍的な人間の性(さが)の負の側面ではないかと思うのです。まさに、本書はそんなエピソードが山積みです。


女性問題で失敗した人物は誰か?本書で取り上げられている人物を新しい順にならべると、新田義貞、亀山天皇(大覚寺統の始祖)、源頼政、平清盛、天智天皇です。


足利尊氏 vs. 新田義貞


鎌倉幕府倒幕の立役者であった足利尊氏と新田義貞。その後、後醍醐天皇と袂を分かった足利尊氏が新田義貞を下しました。南朝を正統とする歴史観では、足利尊氏が裏切り者で新田義貞が忠臣です。しかし、後醍醐天皇が新田義貞に美女を掴ませてた、となると、歴史の見え方が変わります。


平安時代や鎌倉時代末期に、武力を持たなかった天皇や公家が武士を服従させることができたのはなぜでしょうか?そこには「女」の力が強く作用していたのかもしれません。大覚寺統の傍流に過ぎなかった後醍醐天皇は、大覚寺統の主流や持明院統を退け自らが主流派に躍り出るため、「女」を使って味方となる公家や武家を切り崩していったとのことです。


そういう状況が分かってしまうと、善玉は足利尊氏のほうで、後醍醐天皇は悪玉と見えます。女にうつつを抜かした新田義貞は滅ぼされました。


後深草天皇(兄・持明院統始祖) vs. 亀山天皇(弟・大覚寺統始祖)


鎌倉時代中盤、時に幼少天皇に代わり上皇による院政が行われていた時代。両者の父後嵯峨上皇(88代)は、若き後深草(89代)を退位させ幼い弟の亀山(90代)に譲位させました。ここまでは、平安時代末期の白河上皇や鳥羽上皇のやり口を彷彿させます。そして、後嵯峨は後深草の系統を排除し、亀山の子を皇太子(91代後宇多)としましたが、後深草が巻き返しを図ります。


自らの女房(側室)である二条を使い、幕府との折衝役であった西園寺実兼を籠絡し、兄弟争いを幕府に仲介させ、持明院統と大覚寺統の両統迭立に成功しました。また、後深草は二条を弟の亀山にも差し向け、籠絡します。


西園寺実兼と亀山天皇が二条に籠絡されなければ、大覚寺統側のみで皇統を継承していたはず。結果的に、南北朝時代の終焉とともに、南朝側の大覚寺統は衰退し、歴史の舞台から消えました。100年以上の時を経て、始祖が女にうつつを抜かしたために滅びたのです。


源頼朝・源義経 vs. 平清盛


関白太政大臣藤原忠通に仕えた平清盛と源義朝(源頼朝・義経の父)。源義朝は、美女の中の美女と言われた常盤御前を忠道より下賜されます。そのことにより、父源為朝が仕えていた藤原頼長(忠道の弟で藤原氏長者、つまり兄を差し置き藤原宗家を継いだ)を裏切り、保元の乱へと繋がります。見方によっては女のために父を裏切ったことになります(ちょっと言いすぎか)。そして、常盤御前は源義朝との間に牛若を含む3人の男の子を産みました。


保元の乱から3年後、今度は平治の乱が起き、源義朝が平清盛に敗れます。あとは日本史の教科書に書かれている通りで、清盛は義朝の遺児である頼朝と義経の命を救ってしまいます。頼朝の場合は清盛の継母・池禅尼が助命を嘆願したためですが、義経の場合は、常盤御前が嘆願したためです。


結果的に義経も救われますが、常盤御前は清盛の女にされてしまいます。いや、順序が逆かもしれません。常盤御前が欲しいから義経の命を助けたのかもしれません。


助命された源頼朝・義経兄弟に平家が滅ぼされるのはその25年後でした。偉大な父が女にうつつをぬかしたため、その子・孫らは一網打尽に滅ぼされたのです。


天武天皇(大海人皇子) vs. 天智天皇(中大兄皇子)


これまでの三組は京都を舞台にした痴話でしたが、本書にこの二人と額田王の三角関係についても可書かれていましたので触れておきます。本来、額田王は大海人皇子の側室でしたが、兄の中大兄皇子が横恋慕し、横取りします。


だからということではないのでしょうが、天智天皇の死後、壬申の乱により、天智天皇の男系は一旦途絶え、天武天皇の男系により皇位継承されていきます。美女にうつつを抜かした結果、と言えるかもしれません。


古今女難集


新田義貞、亀山天皇、平清盛、天智天皇の4名は、それがすべての理由ではありませんが、女で失敗しました。美貌の女にうつつを抜かした結果、自らを、あるいは子孫を滅亡へと追いやっています。男同士の権力争いが表の歴史であれば、女が動かしたのが裏の歴史。本書は古今女難集と言ってよいでしょう。


そう考えてみると、他にも女で失敗した歴史上の人物はいます。たとえば、淀殿に心を奪われ親族を滅ぼしてしまった豊臣秀吉はその典型です。


一方で、女によって成功した歴史上の人物のパターンとして、恐妻家があります。源頼朝(北条政子)、前田利家(まつ)、山内一豊(千代)、徳川秀忠(江)がよい例です。頼朝を除き、まつ、千代、江は、大河ドラマの主人公にもなっています。


正妻以外の美女に心を奪われた男は身も滅ぼし、正妻だけを(あるいは正妻をいちばん)愛した男は内助の功もあり立身出世しました。


悪女について

悪女好きな私としては、この問題も触れておかなければなりません。私の悪女定義を引用します。


女とは、男の人生に幸福をもたらしたり、男の人生を成功にみちびいたりする存在ではありますが、時にその妖艶な色気でもって、男を惑わせ悩ませ狂わせ、破滅に導く魔性の存在でもあります。


ここで挙げた四例は、破滅に導いたという点では要件を満たしますが、彼女たちが主体的に男を惑わしたというよりも、裏で糸を引く男がおり、彼女たちもまた人生を翻弄されました。その点、悪女とは言い切れません。だまされた男たちを見て「バカだなぁ」とは思うものの、「わーそんな美女なら翻弄されたいわ!」とまではなりませんでした。


副読本


後深草天皇の女二条が『とはずがたり』(問わず語り)という日記を書いており、ある意味、暴露本です。俄然、読みたくなりました。いくつか現代語訳版が出ているのですが、アカデミックなものは読みこなすにはしんどいです。マンガ版が出ておりましたので、こちらを読んでみたいと思います。ひょっとしたら、後深草天皇の思惑に関係なく、二条自身が自ら主体的に男たちを翻弄していたのかもしれません。



改訂

  • 2018年5月7日:新田義貞以降の記述を一部リライト。「悪女について」を追記。



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