<目次>
第一章 吉田松陰と黒船
第二章 吉田松陰の教育論
第三章 松陰と玄瑞、師弟の絆
第四章 久坂玄瑞と禁門の変
NHK大河ドラマ『花燃ゆ』関連の新刊ということで読みました。冒頭写真、左が吉田松陰の肖像画、右が杉文の最初の夫となる久坂玄瑞です。
吉田松陰
まず、吉田松陰の人となりを評すれば、天才でありながら、ずばぬけた行動力があり、熱い情熱を持った方と言えます。数えで30歳、満年齢では29歳で亡くなった吉田松陰は、九州遊学を皮切りに、江戸、東北、長崎と、わずか数年の間に行脚します。東北の旅に出るために脱藩しては咎められ、さらには黒船密航をくわだて失敗しては、野山獄という牢屋に閉じ込められます。
しかし、牢屋に閉じ込まれたというのに、何ということでしょうか。松陰は囚人たちにも学問を教えだし、ついには囚人たちも前向きに学問を志すようにしてしまいました。なかには後に松下村塾で教える人も出てきたとのこと。出獄は許されましたが、引き続き自宅禁固の身でしたので、自宅に隣接する松下村塾で教え始めます。
そのずばぬけた行動力と熱い情熱がありながら、残念がら、物事はうまくいきませんでした。1858年に日米修好通商条約が締結されると、老中間部詮勝暗殺を画策しますが、義理の弟であり一番弟子とも言うべき久坂玄瑞にも時期尚早だと反対され、ついには絶交してしまいます。
数ヶ月の絶交の後、玄瑞との仲は戻りつつありましたが、時はすでに遅し。幕府より目をつけられ長州藩より江戸へ送られ、問われていないのに自ら間部詮勝暗殺計画を供述してしまったため、死罪を申し渡されました。享年30歳。
久坂玄瑞と他の長州藩士
これを久坂玄瑞の立場から見れば、悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかったはず。師匠松陰は、国のためを思い行動を起こした時、玄瑞は行動できませんでした。松陰は玄瑞をなじりました。和解しつつある時に、松陰は捕らえられ、断罪されてしまいました。
この後、久坂玄瑞は満24歳のときに禁門の変で討ち死にします。師匠を死に至らしめたのに何もできなかった、その悔いが玄瑞を走らせ、また死を急がせてしまったのかもしれません。
結果的に、幕末の薩長対幕府の戦争は、高杉晋作に引き継がれ、ついで明治維新は、桂小五郎、さらには伊藤博文や山県有朋らへと引き継がれていくことになります。
著者について
本書の著者河合敦氏は現役の高校社会科の教師です。河合氏の著書を読むのはこれで2度目になります。学校の現役教師が自らも学問をする姿勢は、実にすばらしいと思います。このような先生に、子どもの教育を委ねたいものです。
関連書籍
吉田松陰が死の直前、獄中で松下村塾生に宛てた遺書です。この遺書が、久坂玄瑞らを突き動かすことになります。
編集後記
ざっとぐぐって検索結果を5ページほど見て見ましたが、本書の書評はまだないようです。一番のりかな?
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